
こんにちは。
こころの健康支援室 そらいろのmirineです。
8月もあと数日で終わりますね。
今夏は各地で災害が発生し、未だ暮らしが落ち着かない方もいらっしゃることと思います。
被災された皆さまに、心よりお見舞い申し上げます。
秋以降は、どうか穏やかに落ち着いた日々となりますように。
「禍福は糾える縄の如し」
自然災害は言わずもがな、人生には突然災いや福が降りかかる時があります。
自然災害のように、宝くじに当選するように、自分ではまったくコントロールできない禍福もあれば、人の愚かさが招いた禍、人の無垢さが呼び込んだ福もあるように思います。
タロットカードの0番に象徴される「愚者」の象意は、人の「愚」がもたらし得る禍福の可能性を内包しています。
「愚」と言うと、一般的にはあまりいいイメージではないのではないでしょうか。
しかし、タロットカードの「愚者」には、正位置で出ると「自由、型にはまらない、無邪気、純粋、天真爛漫、可能性、発想力、天才」といった意味が、逆位置で出ると「軽率、わがまま、落ちこぼれ、ネガティブ、イライラ、焦り、意気消沈、注意欠陥多動性」といった解釈ができるそうです(Wikipediaより)。
「愚者」のカードは正位置で出ると、むしろいい意味として解釈されることが多いのです。
「愚」が、禍と福のどちらに転じるか、そのポイントはどこにあるのでしょうか。
あなたは、自分のことを愚かだと思いますか?愚かではないと思いますか?
多くの人は、自分のことを愚かではないと思いたいのではないでしょうか。
もし、自分の中に「自分は愚かであると思いたくない」という気持ちがうっすらとでもあるとしたら、もしかしたら自分が「愚かである」と感じる物事を無意識に避けているかもしれません。
人間は、全知全能ではありません。
必ずどこか足りない部分があるものです。
脳の認識できる範囲に限りがあるということは、脳の認識できる範囲外のことは分からない、認識できないということです。
人である限り、誰しも必ず「愚」である部分を内包しています。
しかし、「自分は愚かであると思いたくない」という気持ちがあるということは、自分の中にある「愚」を直視できないということです。
「愚」を直視できず、目を逸らすために、自分にできる最大限、知的であるように、理性的であるように、論理的であるように、見せよう、振る舞おうとするかもしれません。
「愚か」な人間にならないために、たくさん学ぼうとする人もいれば、学びを深めようとすると、自分より賢い人たちがたくさんいて、その人たちと比べると自分が「愚か」に感じられてしまうことに耐えられず、十分に学ばないまま、賢しらに振る舞うことに一生懸命になってしまうこともあるかもしれません。
賢いと思ってもらえる立場や地位、権力、職業に固執することもあるかもしれません。
残念ながら、自分の中の「愚」を否定し、見ないようにするために一生懸命になっている時、「愚」はその字の通りのものをその人にもたらすようです。
自分が「愚」であると思いたくない、自覚したくないと避け続けている時、人はどんなに賢い自分を目指していても、賢しらなところまでしか届かないのかもしれません。
知性を深めていけばいくほど、自分の中の「愚」に気づかずにはいられないからです。
自分には限界があること。
すべてを把握することはできないこと。
何もかもを思い通りにはできないこと。
気づかずに見落とし、知らずに踏みつけ、自覚なく搾取し、そんなつもりはなく傷つけ、さんざんな「愚」を重ねてきたこと。
それでも、自分が自分としてここまで生かされてきたこと。
「愚」は、それを直視した時に、自分のどうしようもない無力さと、その向こうに自分には及ばない大きくたくさんの支えがあったことが、はじめて視界に入るのです。
自分の中の「愚」は、その時はじめて、タロットカードの0番「愚者」の正位置の象意が表す力を帯びるのかもしれません。
「愚か」でありたくない。
きっと多くの人がそう思うものかもしれません。
私自身、できれば「愚か」でありたくないと思います。
しかし、自分の中の「愚かさ」を否定して、愚かなまま賢しらになるくらいなら、ただの「愚か」であった方が何倍もましだと感じます。
ソクラテスの昔から、自分の「不知を自覚すること」が、知のはじまりなのでしょう。
自分の中の「愚」を、禍を招くものとするのも、福をもたらすものとするのも、己の在り方次第。
同じ「愚者」であるなら、正位置の「愚者」であることができるでしょうか。
自戒とともに
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