「わたし」の在り処

こんにちは。

こころの健康支援室 そらいろのmirineです。



9月に入り、厳しい残暑もほんの少し勢いをゆるめ、東京もようやく朝晩はひと息つけるような気温が戻ってきました。

月曜日未明にあった皆既月食は、真夜中の天体ショーだったので、寝ていたという方も多いかもしれませんが、観月には良い夜だったのではないでしょうか。

季節は秋へと移ろう気配はありつつも、まだまだ残暑は続くようです。

暑さにも変化にも気をつけて、ご自愛くださいませ。



【わたしとであう】シリーズ、続きがまとまらずお待たせしております。

自分自身と向き合うというのは、「自分」を生きたい、「自分」を生きようと思うと避けては通れない営みであって、シリーズを更新できないでいる間も、個人的には日々の生活の中で気づくことも、動くものもないわけではありません。

これまで【わたしとであう】シリーズでご紹介した内容も、日々の生活の中で気にかけ、実践し続けてみると、これまで気づかなかった自分に気づくタイミングがいくつも出てくると思います。

ぜひ、続きをお待ちいただく間も、日々の生活の中で、ご自身に目を向け、意識を向け、注意を傾ける時間を持ち、関心を向けてあげてください。



自分で思う「自分」。

その中に、本当に純粋に「自分」だけのものというのは、どれくらいあるのでしょうか。



人は、社会生活を営む生物です。

生まれてから少なくとも数年、自分以外の他者による世話を受けないと生命を維持することもできないため、たとえば今どれだけ他とのかかわりを絶って生きていたとしても、誰もが最低限人生の最初期を死なずに生き延びるために、自分以外の存在に生かされた経験を有しています。

万物に当てはまるかは別として、少なくとも、人間に限って言えば、「生きている」は、「生かされた/生かされている」と切り離すことはできません。



自分と、自分以外すべてと、そのかかわりの中で生き、生かされる。

「かかわり」があるとは、影響し合うということです。

生きる、生かされる、影響を与える、影響を受ける。

親と子、父と息子、母と娘、父と娘、母と息子、生まれ順、きょうだいの有無、家族の中での立ち位置、求められた役割、請け負った役割、生きて生かされる中で自然と身についた、身につけてきた「自分」。

学校で、会社で、交友関係の中で、求められた役割、請け負った役割、そうした体験を通じて身についた、身につけてきた「自分」。

ひとまとめに「自分」と言っても、かかわる人、いる場所、状況によって、さまざまな顔を持つ「自分」がいて、これまで培ってきた経験、身についた習慣によって、時と場に合わせた「自分」が自然と前にあらわれて、そのどれもが確かに「自分」として認識される。

親である「自分」、子どもである「自分」、孫である「自分」、兄である「自分」、姉である「自分」、弟である「自分」、妹である「自分」、夫である「自分」、妻である「自分」、男である「自分」、女である「自分」、生徒である「自分」、先生である「自分」、上司である「自分」、部下である「自分」、友人である「自分」、先輩である「自分」、後輩である「自分」、隣人である「自分」、市民である「自分」、国民である「自分」、地球人である「自分」、等々。

そうした「自分」もすべて、確かに自分自身ではあるけれど。

たとえば、

親でなく、子どもでなく、孫でもなく、兄でも姉でも弟でも妹でもなく、夫でも妻でもなく、男でも女でもなく、生徒でも先生でもなく、上司ででも部下でもなく、友人でも、先輩でも、後輩でも、隣人でも、市民でも、国民でも、地球人でもなく、

ただ、自分自身だけである「自分」。

それが、このたくさんの「自分」の中のどこかにいるのかと、考えたことはあるでしょうか。



以前、InstagramのこころTipsのアカウントで、こんな投稿をアップしました。

 これまで築いたきた

 肩書を下ろし 立場を下ろし

 所有を下ろし 功績を下ろし 関係を下ろし

 自分から一つずつ下ろしていく

 想像をするとどんな感じがするでしょうか

 すべてなくなって

 頼りなくて心細くて不安な感じになるでしょうか

 何もない、何も持たない、まっさらな「自分」

 よく知っているはずの自分なのに

 そこにたどり着くのがこれほどに難しい

 何もない、何も持たない自分に

 向き合うことができるでしょうか

 まっさらな自分は

 私をどんな目でみつめている

 でしょうか
他とのかかわりの中で培われ、身につけてきた「自分」は、自他の相互作用から影響を受けて育まれてきた側面です。

そして、他とのかかわりの中で、意識しなくても他へ影響を与えたもの、影響を及ぼしたものの中に、「まっさらな自分」の側面があるのでしょう。



自分が、「自分」であると思っているその中にある、ただ、自分自身だけである「自分」を、わたしは知っているでしょうか。

わたしは、わたしに、「自分」に、出会えているでしょうか。



あらあらかしこ

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