こんにちは。

こころの健康支援室 そらいろのmirineです。



つい先日、年が明けたばかりのように感じますが、1月も明日が最終日ですね。

2025年最初の一ヶ月は、どんなひと月だったでしょうか。

2月3日には、立春を迎えます。

春夏秋冬がもう一巡する頃、「私」はどんな現実にいるでしょうか。




起承転結。

はじまりがあり、終わりがある。

物事を捉える時、起点から終点へと向かう線形の流れを、ごくあたりまえに想定して捉えることが多いのではないでしょうか。

時間が過去から未来へ、不可逆的に進んでいくという、生活体験に即した認識の枠組みと考えると、ごく自然なことと言えるかもしれません。



時間のことを考えれば、誰でも「自分」という存在に関して、明白な起点と終点があることを知っています。

「出生」と「死」は、誰にでもある、明白な「はじまり」と「終わり」です。

以前、「チョウの羽を広げて」というブログ記事でお話しした通り、出生の前、そして死の後が「ある」のかどうか、人によって考えはそれぞれかもしれません。
少なくとも、「肉体がある間」に限れば、出生と死は、「個」としての明確な「はじまり」であり「終わり」とみなせるでしょう。

この身体を持って、「自分」という一生を地球で生きるという体験には、はじまりがあり、終わりがあります。



とはいえ、出生と死にはさまれた人生の時間すべてを「過程」として捉えて考えることは、実際には珍しいことかもしれません。

人生の中には、社会的、文化的に設けられたさまざまな「区切り」があり、一生を一つの起承転結として見る視点よりも、さまざまな出来事を、もっとずっと小さな起承転結の物語として捉えて、認識することが多いのではないでしょうか。

十代の若い頃であれば、たとえば、受験の成否が「結末」のように感じられたり、恋の終わりが「結末」のように感じられたこともあったでしょう。

年を重ねていっても、卒業、引っ越し、成人、就活、結婚、子育て、還暦、定年、等々、社会的・文化的に「区切り」とされるポイントは大小いくつもあって、時に望む方に転び、時に望まない方に転びする流れの時々を「結末」として捉えて、喜んだり、絶望したり、怒ったり、祝ったりしているように思います。



「結末」は、どこにあるのでしょう。

人生の折々で「結末」と思えた出来事も、過ぎてみれば通過点の一つだったと分かります。

この肉体としての一生の結末は「死」で迎えるかもしれませんが、それが同時に「私」としての結末ではなく、それすらも通過点かもしれないのです。

「結末」を認識するには、人の意識で把握できる範囲は狭すぎるのかもしれません。



朝と夜に切れ目がないように、はじまりと終わりも切れ目がなく、新しい体験へと流れていくのでしょう。

元は切れ目のない流れの一部分を切り取って、「どんな物語として捉えたか」によって、起承転結を当てはめている。

「結末」は、人の意識の中にしか生まれないのかもしれません。



どんな過去も、どんな今も、どんな未来も、「きりがない」途上だとしたら、人生の捉え方は変わるでしょうか、変わらないでしょうか。

「私」に「きりがなく」、この身体を持って生きる体験にだけ「きりがある」のだとしたら、今自分にどんな体験をさせてあげたいでしょうか。



すべては、己の掌の中に。



あらあらかしこ

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