
こんにちは。
こころの健康支援室 そらいろのmirineです。
今週末は三連休ですね。
暑さも和らいで、いよいよ秋の行楽の本番。
ご予定を入れている方もたくさんいらっしゃるかもしれません。
健康に気をつけて、よい秋の日々をお過ごしください
もう終わったと思ったこと。
もう手放したと思ったこと。
「またか…」と思うようなことが起きたり、あの時と同じような感情を刺激されることが起こることがあります。
そうだとしたら、「終わった」と思っていたことは、本当に終わったのではなく、これ以上見たくないから、向き合いたくないから、「終わったことにした」こと、なのかもしれません。
人の心の「見ないようにする」機能はとても優秀です。
意識の上では、本当に自分に「ない」ものとしてしまうこともあります。
けれど、本当はまだ「ある」こと、「済んでいない」ことを、それを引き受けている無意識の領域はよく知っています。
「済んでいない」状態が、自分に歪みをもたらしていることも、よく知っています。
もし、「済んでいない」ことが無意識にたくさんあると、自分だけど見たくない、見れないところがたくさんあるということです。
意識で把握できる「自分」は、あちこち穴抜けなはずのに、それを問題ないと感じるのは歪めて見ているからです。
見たくない、見れないところがあっても、「大丈夫」な自分でいるために。
自分の弱いところ、じくじくと痛む傷、ドロドロに煮詰まった嫌なところ、深く暗い感情、「きれいで正しく問題のない自分」を損なうものたち。
別に何十年と生きなくても、たったの数年生きただけでも、いくらか体験するものです。
自分でも驚くくらい感情が大きく動くもの、過剰に反応してしまうもの、その奥には自分が無きものした「何か」があります。
強い怒り、かなしみ、不安、恐怖、嫌悪、それらを掘り下げようとすると気持ち悪さや忌避感を覚える時、その奥には過去の「済んでいない」何かがあるはずです。
たとえ「済んでいない」ものでも、見ないままでも大丈夫なものは表にあわられません。
「またか…」や、感情を揺さぶられる体験が、今の自分にも起きたとしたら、それは「済んでいない」ものを「済」にする、本当に終わらせる機会が来たということです。
見たくないと目を逸らし続けてきたものに目を向けるのは、実際、並大抵のことではありません。
精神的にも身体的にも、大きくエネルギーを消耗しますし、自分だけでなく周りにも影響が及ぶこともあります。
目を逸らし続けてきた期間が長ければ長いほど、目を向ける時に代償と感じるものは大きいかもしれません。
それでも、「済んでいない」自分と、本当に「済」ませた自分では、まったく違うのです。
宿題を終わらせないまま過ごした夏休みと、宿題をすべて終わらせた夏休みくらいには。
見たくないからと、何が起きたとしても「済ませない」ままで過ごすことももちろん可能です。
でも、本当に済んだ後の自分がどんな風であるのか、知ることはありません。
無意識に引き受けてもらっていたものをすべて「済」にして、澄んだ自分と出会うことはあるのでしょうか。
あらあらかしこ
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