こんにちは。
こころの健康支援室 そらいろのmirineです。
先週突然ロシアがウクライナへの軍事行動を強行してから、毎日不安や、心配や、かなしみ、怒りに消耗しているという方も少なくないのではないかと思います。
私自身、動揺に、PMSの頭痛と眠気が重なって、うまく文章をまとめられる気がしません。
二度の世界大戦を経ても、どれだけ多くの人が平和と自由と安全を望みながら暮らしていたとしても、ごく一部の暴力を手段として用いることに抵抗のない人たちが権力の座につき、自分の思想や目的のために他者の命や生活を犠牲にする事態が起こり得るのだという現実。
そして、その選択をする権力者自身は、安全なところから、敵も味方も脅かしながらそれを行うのだということを、まざまざと見せられています。
敵は核を含む武力で、味方のはずの国民は権力で脅しながら、敵の命と生活だけでなく、自国民の命と生活も犠牲にして、彼(ら)は何を得ようとしているのでしょうか。
平和であるということ
つつがなく生活が営めるということ
個人の人生を他者から蹂躙されないということ
こうしたごくごく基本的な条件のかけがえのなさを人類が学ぶために、すでに十分すぎる犠牲があったと多くの人が思っていながら、この基本的な条件を地球上のすべての生命が享受するための方法を、人類はまだ見つけられていません。
こういうことが起きると、武力にはより大きい武力で対抗するしかないと言う人が必ず出てきます。
しかし、どれだけ強い軍事力を持ったとしても、他国がより強い軍事力を持つことに怯え、あの国とあの国が力を合わせて向かってくると危ないと怯え、お互いに軍事力を制限なく拡大し続ける悪循環に陥るばかりです。
その悪循環の果てには、おそらく平和とは真逆の状態があることは、想像に難くありません。
じゃあどうすればいいのかということを、きっと第二次大戦後ずっと世界は模索し続けてきたのではないかと思います。
戦争はいつも、自分は傷つかないところにいるごく一部の人たちが起こします。
自分の利のために人の命を使うことを厭わない人たちが、使える場所にある時に起こります。
現状の政治システムでは、そういう人たちが権力の座につかないようにすることは残念ながらまだ難しいようです。
権力者が美辞麗句を並べて正当化したり、脅してきたり、命令しても、実際に行動の是非を判断し、選ぶのは主体である個人です。
真偽のほどは分かりませんが、ウクライナに派兵されているロシア兵の中にも、ウクライナに投降している兵たちが出てきているという話もありました。
他者が権力をかさに死ぬことや殺すことを命令してきたとしても、NOにつながる選択肢を見出し、行動できるように、日々の小さなことから、されて嫌なこと、したくないことにはNOの意思を毅然と表すこと、今のロシアのように、もし自分の国の権力者が戦争に手を染めた時、国民としての自分に何ができるのかを、一人ひとりが折々に考えることが必要なのかもしれません。
平和は、今はまだ残念ながらただ安穏と享受できるものではなく、一人ひとりが確固たる意思をもって選び続けなければ簡単に揺らいでしまうものです。
戦争の残酷さは、たとえ実際に体験していなくても、伝えられる話を見聞きするだけでも十分、今ある平和な生活の大切さを思い出させてくれます。
黄色いバラの花言葉は、「友情」「平和」。
一人ひとりの日々の選択の積み重ねが、一人でも多くの人が平和な生活を享受できる方向に寄与することを
一日も早くロシアが侵略を諦め、ウクライナと地球に安らかな日々が戻ることを
心から祈っております。
かしこ
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