ネガティブはアラート

こんにちは。

こころの健康支援室 そらいろのmirineです。



今年も早11月。

あと二ヶ月を切りました。

明日には立冬を迎え、冬の訪れもすぐそこです。

そろそろ、年越しをどんなあなたで迎えたいか、ご自身をふり返り、整えて、年越しを良いしめくくりとはじまりとしたいですね。



生きていると、ネガティブな感情を刺激される出来事や物事に、もしかしたら数え切れないくらい遭遇しているかもしれません。

身近な相手、いつもの場所、慣れない状況、新しい変化、どれをとっても、大なり小なり、ネガティブな感情を触発する何かがありそうです。

「“いつも”私をイラつかせる」誰か、「“どうしても”変わらない」状況、「“結局”思い通りにならない」物事、等々。

いつだって自分は気分良くしあわせでいたいのに、それを的確に邪魔するかのように起きてくるあれこれ。

ネガティブな感情が触発される時、自分にこんな感情を味あわせたと、相手や状況を責めてしまうでしょうか。

たとえば、嫌な思いをさせた人や物事を一つひとつ漏らさずに責めたとして、ネガティブな感情体験は人生から一掃されるでしょうか。



もしかしたら、自分の周囲の人や物事を責めれば責めるほど、ネガティブな感情を触発する体験は、小さなものから大きなものまで、多種多様に増えるものかもしれません。

なぜなら、意識の焦点が、自分にネガティブな感情を体験させる人や物事にぴったりと合ってしまっているからです。

そして、それ以上に、自分の心に浮かび上がってくるネガティブな感情を、自分の外にある他者や何かのせいにしてばかりで、その感情が容易に触発される状態にある自分自身の内側にある問題と向き合おうとしていないからです。

嫌だ、不快だと思う感情は、心地よい感情よりよほど自分の注意を引きつけます。

ネガティブな感情は、自分の心の中に片づいていない何かがあることを知らせてくれるアラートなのです。



できれば見たくないもの、触れたくない傷、こんな弱く醜い部分があるとは思いたくなかった側面というのは、どれだけネガティブな感情が知らせてくれたとしても、見ずに済むならそうしたいものです。

今湧いてきたネガティブな感情を、今、物理的な目で見えている相手、物事、状況、問題のせいにしていれば、そこを見ないまま、禁域のままにしておける。



「悪いのは外にある、外にあるものが良くなれば、自分はこんな感情を味わうこともない」



でも、たとえ運良く外の状況が改善したり、合わない人と離れたり、変わってほしいと思った物事が変わったとしても、心の中の禁域のかたがつかないままであれば、また別の相手、また別の場所、また別の状況で、同じような感情を喚起させる体験が再現される。

その感情がわいてくる原因は、外側の誰かや何かではなく、自分の中にあるからです。



元々のきっかけが外からもたらされたものであっても、内側の感情が動くのであれば、その感情をどうするかは自分自身の問題です。

その感情が知らせてくる、その感情とかかわりのある、自分の内側の「見たくない」領域に目を向けることができなければ、その感情を喚起するものは、人であれ物事であれ、生きている限り自分の周りから無くなることはないでしょう。

自分が生きている間にどんな感情を体験したいか、それは他者や他の何かによって決まるのではなく、自分自身の選択によって決まるのです。

自分以外を責め続けて、自分を不快にするネガティブな感情を喚起され続けるのか、自分の内側を少しずつでもできるだけクリアにし続けて、ネガティブな感情というアラートを一つずつ解除していくのか。



どちらの大変さが、あなたにとって価値があるでしょうか。



あらあらかしこ

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