無意識にあるもの

こんにちは。

こころの健康支援室 そらいろのmirineです。



お彼岸も過ぎ、東京もようやく秋らしい空気を感じる日が出てきました。

気温は平年より高く推移しているようですが、夏があまりに暑かったので、30度を下回っただけで秋だと感じてしまいます。

なんだか暑さに慣らされたようでちょっぴり癪ですが(笑)

季節の移り変わりにともない、朝晩の寒暖差も大きくなってきました。

どうぞ皆さまお身体お気をつけて、よい秋をお過ごしください。



空気に秋らしさが感じられるより先に、今年は図らずも「読書の秋」をしております。

ブログでもすでにいくつかご紹介していますが、X(旧ツイッター)でフォローしている方のポスト(ツイート)を見て購入した「ポリヴェーガル理論臨床応用大全」と、ネットサーフィンをしている時に紹介されていた「親といるとなぜか苦しい」を皮切りに、関連やおすすめで表示される中で気になった本を買っては読み、買っては読みしています。

元々本を読むのは好きでしたが、しばらく読むこともできない精神状態が続いていたこともあり、心理関係の本をこれだけたくさん、集中して読めるようになったことにも感慨深いものがあります。



通読したもの、未読のもの、途中のもの、再読しているもの等ありますが、いずれも子ども時代に養育者をはじめとした身近な他者とのかかわりから受け取り、身についたものの影響の大きさ、深さを描き出しています。

鳥類の刷り込みではないですが、人間の乳幼児期というのも、その時期の記憶が無意識の底に忘れ去られやすいという点を鑑みても、非常に「刷り込まれ」やすい時期と言えるのではないでしょうか。

ごく幼い頃に、養育者や身近な他者とのかかわりの中で、生きるために身につけた自己に対する態度、他者に対する態度、世界に対する態度、反応のパターンは、一つひとつの出来事は忘れてしまっても、自己や他者、世界に相対する時の無意識の基礎となり、成長して大人になっても気づかないまま残り続けます。

その基礎的な態度やパターンが、成長した今の自分とっては足を引っ張るものになっていたとしても、「生存のために」身につけたこともあって容易には捨て去ることもできず、また無意識にあるため気づくことさえ難しいまま、なぜかいつも満たされない気持ちに苛まれていたり、小さなことに感情が大きく動いてしまったり、他者とのかかわりでしばしば問題を抱えてしまう等、生き方に大きな影響を及ぼしてしまうのです。



自分の意志で、自分の選択で、自分の人生を生きてきたと、生きていると、信じて歩を進めてきたその道のりが、実は自分でも気づかないうちに幼少期に親(養育者)との関係で身につけた姿勢やパターンからの影響を受けた選択だったかもしれないと、本を読みながらハッと貫かれるような思いがしました。

これまでの選択も、たしかに自分のためのものでもありましたが、幼少期に身につけた無意識の態度や反応パターンの影響がもしなかったとしたら、自分は同じ選択をしていただろうかと感じたのです。

可能性はいつでも無限にありますが、意識の領域で捉えられない可能性は選びようがありません。

意識には、無意識の段階の取捨選択で残ったものしか浮かんできません。

いつだって人は、意識で把握できる範囲の中からしか選べないのです。

そうであれば、無意識からの影響は甚大なものと言えるのではないでしょうか。



幼少期に身についた無意識の態度や反応パターンは、自分にとっては意識しなくても空気を吸って吐く呼吸のように、生きる上であたりまえの挙動となっているため、気づこうと思わなければ気づくことは非常に難しいでしょう。

もちろん、身についた態度や反応パターンが、今の自分にとっても有用であれば、特別気づく必要もないかもしれません。

しかし、幼少期に身についたそれらによって、今の自分の可能性が狭まり、息苦しくなっているとしたら、気づくことは人生の選択肢を広げる一助となることでしょう。



気づきたいと思ってアンテナを張っていると、必要な情報をキャッチしやすくなります。

読んだ本のご紹介も含め、当ブログでも役立つ情報をご紹介できるように、引き続き精進してまいります。



かしこ

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