ここからだから見えるもの ここからだから見えないもの

こんにちは。

こころの健康支援室 そらいろのmirineです。



9月に入りましたが、厳しい残暑と局地的な豪雨が続いています。

東京ではすっかり秋の虫が鳴いていますが、まだ夏の名残に気は抜けないようです。

皆さまどうぞ安全と健康第一で、お気をつけてお過ごしください。



先日何冊か本を購入してから、時間を見つけては読み進めています。

本に書いてあることからもさまざまな気づきがありますが、いくつか読んでいく中で、自分の視点について気づいたこともありました。

向いている方向は間違っていなくても、あまりに近視眼的になっていたために見えなくなっていたことがあったと、ハッとする瞬間があったのです。



自分の心であれ、感情であれ、体験であれ、他者との関係であれ、関心の向く方を見ることはあまり難しくはありません。

関心をもって目を向けていると、自分はその対象をちゃんと見れているように感じてしまいます。

しかし、「見る」というのは、どこから見ているかで同じ対象でもまったく違って見えるのは、身体の目も心の目も同じです。



近視の人は、対象を良く見ようとして気づいたらあまりに接近しすぎていた、という経験をしたことがあるかもしれません。

逆に遠視の人は、よく見ようとして対象から遠ざかろうとすることがあるでしょう。

どちらもそうすることによって「よく」見えるかもしれません。

しかし、近すぎるがゆえに見えなくなるもの、遠すぎるがゆえに見えなくなるものが必ず出てきます。

近すぎると、対象の全体像や、他の対象との関係性が見えなくなっているかもしれません。

遠すぎると、対象がどんな詳細をもっているのか、一つなのか複数の部分によって構成されているのかといったことが見えなくなっているかもしれません。

自分は対象を見ていて、しかも対象はちゃんと見えているので、自分に見えていないものがあるということに気づきづらいのです。

近づきすぎている、遠ざかりすぎていると、何かの拍子に気づくことがなければ、「ちゃんと」見れているように感じられるのです。



特に自分自身のことに関しては、心の目が近視眼的になりやすいかもしれません。

「自分」は、物理的な距離をとることができないため、どうしたって「近すぎる」のです。

同じように、家族や特に親しい友人等も、心の目が近視眼的になりやすいかもしれません。



今、見えているものがどんなに「よく」見えていても、必ず盲点はあるものです。

だからこそ、視点が変わることによる気づきの効果は、一瞬でもインパクトの大きい体験に感じられるかもしれません。



かしこ

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