変わらないという錯覚

こんにちは。

こころの健康支援室 そらいろのmirineです。



今年も早五ヶ月が過ぎようとしています。

この五ヶ月はどんな風に過ごされたでしょうか。

今年の初めと、そこから五ヶ月を経た今の自分は、何か変わったでしょうか。



今の自分が、過去の自分から明確に変わったと認識することは、それほど頻繁にはないことかもしれません。

何か大きな出来事があると、その出来事をきっかけに変化した自分を自覚することもあるかもしれませんが、それでも、過去の自分と今の自分が別人であるとまで感じることは、あまりないのではないでしょうか。

どちらかというと、時々で変化はあっても、過去から今に至るまで、「自分という存在は一貫している」という感覚がある方が普通のことです。

アイデンティティの概念と発達理論を提唱したE. H. エリクソンによると、「自分」が過去からの時間的連続性を持つ、一貫した存在であるという主観的な認識を持つことが、アイデンティティを確立するために不可欠な要素の一つとされています。

健全な自己概念には、そもそも、自分という存在が過去から現在まで連続し、一貫しているという感覚があるものなのです。



しかし、実際には、どんな人も時間の経過とともにまったく変わらないことはありません。

どんな生き物も、環境に適応できているのであれば、環境の変化に合わせて変化し続けています。

古今東西、「万物流転」「諸行無常」の概念が知られてきたように、変わらないものはないのです。

「自分」という存在の確かさを支える「一貫している」という感覚のために、自分が昔も今も変わり続けているという事実に気づきにくくなっているのです。

そして、時には、自分以外のすべても変わり続けているということも気づかず過ごしてしまうこともあります。

お互いがお互いの変化に意識では気づかなくても、無意識にうまく合わせられているうちは、「変わらない」という幻想のまま過ごせてしまうかもしれません。

合わせることが難しくなると、自分か相手、もしくは両者とも「変わった」のだと気づかれるかもしれません。



五ヶ月前の自分と今の自分は、何か変わったでしょうか。

一年前、五年前、十年前、学生の頃、子どもの頃、細かく詳しく、さまざまな時点の自分をふり返ってみると、自分はどんな風に変わってきたでしょうか。

その時々に自分をとりまく環境や関係から、外側の変化から、自分は何を受け取って、自分の何を、どんなところを、どんな風に変えてきたでしょうか。

変化の最先端にいる今の自分は、どの時間軸の自分にも誇れるような変化を重ねてきたでしょうか。

これまで重ねたあらゆる変化は、「自分」の純度を高めるものだったでしょうか。



ずっと、変わらないと感じていた、信じていた、その錯覚の向こうで、重なった変化がもたらすもの。

何もかもが常に変わり続けている中、自分がより自分でいられる変化を、どれだけ重ねていけるでしょうか。



あらあらかしこ

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