懐中電灯が照らす外側に

こんにちは。

こころの健康支援室 そらいろのmirineです。



あっという間に11月も下旬にさしかかっています。

【わたしとであう】シリーズ、ゆっくりと考えをまとめる時間が取れず、更新が滞っておりますが、気長にお待ちいただければさいわいです。

東京は季節外れのあたたかさが続いていましたが、今週に入り急激に寒さが深まってまいりました。

どうぞお身体お気をつけてお過ごしください。



自分自身と向き合うことを続けていると、自分の意識できる範囲がどれほど狭いかということに気づきます。

十分によく分かっている気がしていた自分のことも、本当にわずかしか知らなくて。

見えていても、意識していなければ記憶に残らず。

聞いていても、意識していなければ記憶に残らず。

体験したはずなのに、印象の薄いところはおぼろげで、体験したかどうかすらさだかに思い出せない。

感覚が捉えている範囲と比較しても、意識で捉えられる範囲というのは本当にわずかで。

懐中電灯の明かりの範囲しか見えない暗闇の中で、「思い通りに」なんて、うまくいったとしてもいかなかったとしても、どれだけの意味があるのだろうと思えてしまいます。



明かりの届かない、自分には見えていない範囲に、何があるのかを知らず、分からず、自分の都合と願望だけの「思い通り」。

見えていなくても、把握できていなくても、暗闇の中で生起する事象が自分と無関係かというと、そういうわけでもなく。

自分に意識と無意識があるのと同じように、他者にも意識と無意識があり。

小さな懐中電灯で照らされた世界を「すべて」だと疑わずに、それぞれの「思い通り」を望んで動いていて。

自分の「世界」よりずっと広大な暗闇の中で、何が生起し、どんな影響を与え合い、何が波及して、いつ何が自分に返ってくるのか。

最善と思ったことが最善でなく、最良と思ったことが最良でない。

自分の懐中電灯で照らされた「世界」にすべてを当てはめようとがんばるほど、「思い通り」は遠のいていくのでしょう。



人事を尽くして天命を待つ。

人事を尽くしても、天命がなければ成らない。

懐中電灯の明かりの範囲を知り、暗闇からもたらされる天の采配を信じ、自分に注力しながら進む。

揺れ動く感情をたずさえながら進むには、なかなかに難しい道のりだと思えてしまいます。

この難しい道のりを、それでもどうにか歩いていくには、他人のことを気にかけている余裕は本当はないのです。

自分の「世界」が小さな懐中電灯の明かりの範囲でしかないということに気づくことが、本当のはじまりなのかもしれません。



あらあらかしこ

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