表面があれば、奥がある

こんにちは。

こころの健康支援室 そらいろのmirineです。



4月も半ばに入り、今月から新生活がはじまった皆さまも、ほんの少し新しい生活に慣れてきた頃でしょうか。

まだまだ慣れないこと、知らなかったこと等に触れることも多いかもしれませんが、それらすべて、自分の中の新しい世界を少しずつ広げているということです。

今は新しく慣れないことばかりでも、一日一日積み重なるごとに、よく慣れ親しんだいつもの日々に変わります。

ご自身の心身の声にも耳を傾けながら、よい日々と体験を重ねていけますように。



環境や状況が変わる時というのは、ご自身の外側のことに意識が向きやすくなります。

今の環境や状況に適応するためには、外側の情報が不可欠だからです。

今自分が置かれている場所、他者との関係、ある他者と別の他者がどんな関係か、どんな振る舞い、どんな能力、どんなパフォーマンスが要求されているのか、期待されているのか、等々、さまざまな情報を明に暗に読み取り、受け取り、環境への適応を図ります。



過ぎたるは及ばざるが如しと言いますが、適応についてもこの言葉が当てはまります。

自分の属する場所にうまく適応できない不適応はもちろんですが、自分の属する場で求められる期待や要求に応えようとしすぎてしまう過剰適応も、とても辛い状態になってしまうことがあります。

期待に応えたい、応えようとがんばりすぎて、自分の欲求やニーズを後回しにしてしまい、表面的にはとても評価され、うまくいっているように見えても、自分でも気づかないうちに無理を重ねていて、突然大きな不調に見舞われて、身体的もしくは精神的、もしくはその両方の問題によって動けなくなってしまうのです。



不適応は、自分でも問題や辛さを自覚しやすいですが、過剰適応は、表向きうまくいっていると、たとえ自分の中である程度負担を感じていたとしても、問題という認識にまではなりにくいかもしれません。

「うまくいっている」の中に含まれる自分と、含まれない自分がいるので、問題意識になりにくいのかもしれません。

「うまくいっている」の中に含まれない自分はもちろん、負担を感じている部分の自分です。

「うまくいっている」の中に含まれる自分は、過剰適応することで、評価や賞賛、居場所等を得ていることにメリットを感じている部分の自分です。

過剰適応によって「うまくいっている」時、そこには必ず過剰適応している人の自己犠牲があります。



ここで肝心なのは、その犠牲を払うことを許可しているのは、他者ではなく、過剰適応することを選んでいる自分自身だということです。

周囲の人も、過剰適応してくれている人のおかげでいろんなことが「うまくいっている」、その恩恵をたしかに享受しているかもしれませんが、過剰適応することで得られるメリットのために、自分が自分に犠牲を強いている。

自分に負担をおわせること、自分を犠牲にすることに対して、極めてハードルが低い自分自身に気づかない限り、犠牲ありきの適応以外の方法や選択肢を見つけることすらできません。



よろこばせないと、役に立たないと、いいものを提供しないと、認められないかもしれない、受け入れてもらえないかもしれない、いらないと言われてしまうかもしれない、あらゆることが「うまくいかなくなってしまう」かもしれない。

今あるすべてが、崩れ去ってしまうかもしれない。

心の奥からベース音のように響き続けるひそやかな恐怖に、そっと目を向けることができるでしょうか。

他の誰のためでもなく、その怖さを抱えながら、目の前の「平穏(のように見えるもの)」のために自分を犠牲にし続けている、自分自身のために。



あらあらかしこ

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