裸の王様

こんにちは。

こころの健康支援室 そらいろのmirineです。



今日は山の日ですね。

お盆休みとつなげて、連休を取っている方もいらっしゃるかもしれません。

各地で厳しい残暑に局地的な豪雨と、祝日やお盆を楽しむには厳しい天候が続いています。

安全と健康第一で、よいお盆をお迎えください。



アンデルセンの「裸の王様」を、小さい頃に読んだり読んでもらったりしたことがある方も多いのではないでしょうか。

馬鹿者には見えないという触れ込みの不思議な服を、多くの役人や大臣、王様自身もまさか「見えない」とは言えず、王様はその服を着て(つまり裸で)新しい服のお披露目パレードをします。

パレードを見に来た人たちも、そういう触れ込みの服を「見えない」とは言えずに、王様の新しい服を口々にほめますが、小さな子どもだけが「王様は何も着ていない、裸だ!」と叫び、それを発端に、今までほめていた大人たちもざわめき出す、というような内容の童話です。



この童話の内容から転じて、「裸の王様」は「高い地位にあって周囲からの批判や反対を受け入れないために、真実が見えなくなっている人のたとえ(goo国語辞典より)」とされているそうです。

しかし、この話で詐欺師に騙されたのは「高い地位」にある王様だけではなく、実際には登場する詐欺師以外のほとんどの大人たちが騙されました。

「自分が馬鹿だと思われたくない」ために、実際に今、自分の目に見えている事実をなかったことにしたからです。

そして、多くの人が自分にとって都合の悪い事実から目をそらして、なにもないところに豪華で素敵な服が「ある」としたことで、裸の王様のパレードは子どもが事実を叫ぶまで成り立ってしまったのです。



これは童話ですが、現代でもさまざまなところで起きていることではないでしょうか。

小さな個人的なことから、特に日本では社会に根深くはびこる大きな問題のまさしく「根」としても、都合の悪い事実に蓋をしてなかったことにしたり、言葉を弄して矮小化したり、喉元過ぎれば熱さを忘れるように仕向けたり、「本当のこと」を「都合のいい内容」で塗り替えて、あたかもそれが最初から本当のことだったように作り上げる、「裸の王様」的なやり方が、昨今横行しているように思えるのです。



「裸の王様」は、馬鹿だと思われたくないために、「自分の目に見えたこと」よりも「立派な新しい服がある」ことを事実だと思っている王様自身と、そのストーリーを支持した多くの人たちによって成り立ってしまいました。

詐欺師の思惑を、みんなで成立させてしまったのです。

そして現在も、都合のいい内容で本当のことを塗り替えてしまう現象は、自身の利益のためにその手段を用いた人と、「それは事実ではない」と公然と指摘せずに、事実より都合のよさを支持してしまう多くの人たちが存在することによって成り立たせてしまっているのではないでしょうか。



事実が自分にとって都合が悪い時、それがごく個人的なことでも、より大きな問題であればなおさら、「事実」ではなく「都合のいいこと」が「本当」であったらよかったのにと思ってしまうことは誰にでもあると思います。

小さな嘘をついたり、ごまかしたりしたことが一度もないという人も、きっとこの世にはいないでしょう。

それでも、事実より都合のよさを選ぶことを自分に許し続けると、他者が大きな問題でそれをした時に、裸の王様や家来たち、パレードを見に来た市民のように、事実を公然と指摘することができずに、自身や社会に害をもたらす片棒をかついでしまうことにもなりかねないのです。



事実を都合のいいもので塗り替えずに直視する。

事実でないものを事実として扱わず、事実を事実として受け止め、扱う。

「裸の王様」で、小さな子どもがなんのためらいもなくしたことです。

たくさんの大人たちが見えない服をほめそやす中で、王様が裸であることを大声で指摘した子どものような勇気をどれだけの人が持てるかで、社会の在り方は大きく変わるのかもしれません。



詐欺師に騙され、片棒をかついでしまった裸の王様や市民になるか、事実を直視することのできる子どもになるか。

少なくとも、事実を叫んだ子どもでいることができれば、気づいたら裸でパレードをしているような、心底都合の悪い事態になることはないのかもしれません。



かしこ

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