「あたりまえ」を精査する

こんにちは。

こころの健康支援室 そらいろのmirineです。



6月も終わりに近づき、今年もいよいよ半年が過ぎようとしています。

6月30日は、夏越の祓という、年越しと対になる、半年分の穢れを祓い浄め、向こう半年の無病息災を祈願する、神道行事が行われる日です。

Wikipediaによると、「衣服を毎日洗濯する習慣や自由に使える水が少なかった時代、半年に一度、雑菌が繁殖し易い夏を前に新しい物に替える事で、残りの半年を疫病を予防して健康に過ごすようにする意味があったのではと考えられている」そうです。

現代では、年越しのように広く一般に受け入れられた行事ではありませんが、半年の区切りを機に、新しい半年をより身軽に過ごせるように、古い習慣を洗い直してみるのもいいかもしれません。



幼少期のさまざまな経験から、物事に対する見方や考え方、反応や行動等、自分にとって「あたりまえ」になりすぎて特別疑問に思うこともない習慣が、たくさん身についています。

そうした「あたりまえ」は、時に自分を助けてくれたり、守ってくれたり、人生のある局面では確かに自分をサポートしてくれたものだったかもしれません。

しかし、人も環境も、時間とともに必ず変化していきます。

ある時は有用だった方法が、いつの間にか重石や負担になってしまうことも、珍しいことではありません。

昔からずっと頼ってきた「あたりまえ」の方法、習慣、考え方。

もしかしたら、そうしたもののいくつかに、ふと違和感を覚える瞬間があったかもしれません。



自分にとって「あたりまえ」であること。

自分にとって「当然そうすべき/すべきでない」と思っていること。

「あたりまえ」「当然」になってしまっているものは、一瞬の違和感くらいではびくともしないくらい、疑問の余地もないものかもしれません。

それでも、時代とともに、「当然」とされるコンプライアンスの基準が大きく変わってきたように、ハラスメントとされる基準が変わってきたように、自分にとっての「あたりまえ」も、重ねてきた変化にともなって、今の自分にはそぐわなくなっているものも、中にはあるかもしれないのです。



自分が何を「あたりまえ」だと思っているのか。

自分がどんなことを「当然」だと思っているのか。

普段、特別意識するまでもないくらい、自分にとって「あたりまえ」となっていること。

まずは、それに気づき、それらを洗い出し、一つひとつに「本当にそうか?」と尋ねてみる。



たとえば、「ごはんは一汁三菜なくてはならない」と思っていたら、「本当にそうか?」と自分に尋ねてみる。

「周りの人が気分良く過ごせるように気を配らないと」と思っていたら、「本当にそうか?」と自分に尋ねてみる。

「兄姉だから/弟妹だから、きょうだいに譲らなきゃ」と思っていたら、「本当にそうか?」と自分に尋ねてみる。



自分で思いつく、自分にとっての「あたりまえ」を、棚卸しして、一度疑ってみてください。

「もしかして、あたりまえにそうしなくてもいいのかも」とか、「本当はあたりまえでもなんでもなく、昔からの習慣や、小さい頃教えられたから、自分がずっとそういうものだと思ってきただけかも」という風に思えるものは、もう今の自分にそぐわなくなっている考え方や習慣かもしれません。

「あたりまえ」は、疑いを持つことがなければ、そのまま「あたりまえ」であり続けます。

その「あたりまえ」が、今の自分を締めつけ、不自由にするものだったとしても、慣れてしまっているとその不自由さにも気づかずに過ごせてしまうのです。



これまでの自分にとって「あたりまえ」であっても、これからの自分にとってはそれよりももっと良い「あたりまえ」があるかもしれない。

選択の余地もないくらい「当然」のことだったけれど、これまでの「当然」とは違う、自分にとってより良い何かを選べるかもしれない。

自分の中にいくつもある「あたりまえ」に気づき、精査することが、「あたりまえ」の外にあった可能性や選択肢に気づく機会になる。



慣れ親しんだ「あたりまえ」の世界を超えた先にある、今の自分に合う可能性を見つけてあげてください。




あらあらかしこ

コメント

タイトルとURLをコピーしました