表されることを待つものたち

こんにちは。

こころの健康支援室 そらいろのmirineです。



人は、言葉の微妙な差異を、どのくらい明確に、正確に、認識できているのでしょう。

たとえば、恋と愛と愛情と愛着。

たとえば、信と信用と信頼。

自分の中で、なんとなく違うような気がするでしょうか。

どれも同じに感じるでしょうか。



もう何年も前に、長年の友人から「愛だね」と言われたことがありました。

友人が「愛だ」と言ってくれたものが、自分にとって本当に「愛」なのかどうか、そう言われた時も、今も、はかりかねたままでいます。

たとえばそこに、本当に「愛」があるのだとしても、決して「愛」だけではなかったということも、自分でよく分かっているからかもしれません。

それこそ、「愛」と、「愛着」と、ひょっとしなくてもきっと「執着」も混ざり合っていて。

「愛」がないとは言わないけれど、他のいろんなものをまとめてきれいにマスキングする大義名分として利用しているんじゃないか、とか。

「愛だね」と言われて、それをまっすぐにそうだと同意できない自分をかなしくも思うし、他者から「愛」だと断じてもらえたことに安心して、自分にとっても「愛だった」としてしまわない自分でよかったとも思います。



言葉としては別のものとしてあっても、一人ひとりの心の中で、それらがすべて異なるものを指す言葉として、認識されているとも限りません。

言葉は、他者と意思疎通をするために使われるよりも前に、自分の認識する世界の解像度を上げるために必要なツールです。

たくさんの言葉を知っていても、複数の言葉がぼんやりと同じもの、同じ領域を指しているのであれば、解像度はそれ以上上がりません。

自分で明確に理解している言葉が少なければ、その言葉で表せるだけの解像度の世界しか認識できません。

虹を五色と認識する言語を使う人と、七色として認識する言語を使う人では、見ている現象は同じでも、認識している世界は別物なのです。



友人が「愛だね」と言ってくれたものが、自分にとって、正確には何であるのか。

たとえば、恋と愛と愛情と愛着。

たとえば、信と信用と信頼。

抽象的な概念のちょっとした差異が均され、あれもこれもそれも同じものとして扱われることが多い中で、自分の中の微妙な差異をどれだけ大切にして、解像度を上げていけるか。

少なくとも、あなたの感得する世界の微妙な美しさを表し出すことができるのは、あなた自身しかいません。

表面がきれいな言葉を貼りつけて終わりにしてしまっては、すくい上げることのできない色があるかもしれません。



虹に、何色見つけられるでしょうか。

愛だと思っているものの中に、何を見つけられるでしょうか。



あらあらかしこ

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